こんにちは、かわよです。
私はしがない40代のサラリーマン。
2度ほどの転職をしながら、もうかれこれ20年ほど医療業界で製品開発の仕事をしています。
今回はそんな私が、自律神経失調症と診断されるに至ったその発症経緯と、克服を目指してブログを開始しようと思うに至った経緯を私の人生を振り返りながら説明していきます!
自律神経失調症とは
まず、初めに「自律神経失調症」とは一体何なのかについて簡単に触れておきましょう。
自律神経失調症は、自律神経がうまく調整できなくなることによって起こる病気です。自律神経は、体内の様々な機能を自動的に調整する重要な役割を持っています。例えば、心拍数や血圧、呼吸、消化、排泄などですね。
自律神経失調症では、この自動調節機能がうまく働かなくなることで、様々な症状が現れるわけです。具体的には、めまい、立ちくらみ、息切れ、動悸、手足のしびれや痛み、冷や汗、顔面蒼白、下痢や便秘、食欲不振、吐き気、頭痛など本当に様々です。また、不眠や疲れ、ストレスや不安感などの精神的な症状も現れることがあります。
自律神経失調症の原因は、ストレス、過労、運動不足、睡眠不足、栄養不足など、さまざまな要因が考えられます。治療には、生活習慣の改善、適切な運動や食生活、ストレス解消法などが含まれます。重度の場合は、症状を和らげるための薬物治療も行われます。ちなみに私は薬物治療中です。自律神経失調症は症状が個人差が大きく、治癒に時間がかかる場合があるので、症状が現れた場合は、早めの診断と治療を受けることが大切とされています。
それでは、ここから私の人生を振り返りながら、発症及びブログ開始の経緯について書いていきましょう!
ー 筆者「かわよ」の人生 ー自律神経失調症の診断⇒克服のためのブログ開始の経緯
学生時代~就職:要領よく生きストレスとは無縁の日々
元々勉強嫌いの私は、高校受験の際に親に言われるがまま某三流文系大学の付属校へと進学した。
ただ、小学校の頃には結構勉強を頑張っていたため、その時の貯金で何とかギリギリ偏差値60ちょいの学校に入ることはできた。
そして、高校時代は運動部でイキイキと活躍し、校内ではそれなりの人気者。男女問わずたくさんの友人と楽しい時間を過ごした。
しかし、勉強の方はからっきし。学年に500人近くいる同級生の中で常に成績は下から2,30人の中に入っていたように思う…。それでも、90%以上が進学できる付属校で、一部の優秀な生徒は他学を受験するため、私のような成績でもちょっとした小論文を書くことで大学への進学を決めることができた。
学部はごく一般的な社会系学部。大きな特徴もないが、どんな業界でもつぶしがきくかなという感じでその学部に決めた。
大学時代は割と真面目に大学には通っていた。ただし、授業をまじめに受けていたかというとちょっと自信がない…。だって大学で習ったことはほとんど覚えていないのだから…。
ただ何となく通っていた学生時代だったのだと思う。
それでも、コミュケーションスキルには自信を持っていた。すぐにたくさんの友達ができるし、グループの中でも多くの場合、割と中心的な存在になっていた。
自信のあったコミュニケーションスキルのおかげで「就職氷河期」と呼ばれた時代にもかかわらず、就職活動はスムーズに進み、3年生のうちには東証一部上場の医療系企業から営業職としての内定をゲットした。
なぜ文系なのに医療関係の企業を受けたかというと私の兄は理系出身で、私よりも先に医療業界へ、東証一部上場企業の医療系グループ会社へ就職していたのだ。
私が就職活動をする際に「医療業界は安定していて、給与水準も高いし、いいぞ」と。
ということで、兄に言われるがまま医療業界をメインターゲットに就職活動開始したというわけだ。
信じられないことにグループディスカッションや面接まで進めば、ほぼ落ちることはなく順調に進み、なんだか自信に満ち溢れた状態で連日のように面接を受けに行っていたことを思い出す。
社会人1年目~自律神経失調症の発症:成功からの挫折
最初に入社した企業での配属先は商いの町、大阪。
東京出身、東京育ちの私はちょっと東京を離れてみたいと思っていたので大喜びだった。実際、大阪の日々は楽しかった。先輩や同僚、近隣の同期などとの充実した日々を過ごしていた。
仕事もお得意のコミュニケーションスキルが炸裂し、1年目からよい営業成績をおさめた。
1年目は大阪支店の優秀社員として表彰、2年目には全社の優秀社員として海外研修に抜擢。
プライベートも充実しており、社会人2年目の年には婚約、翌年には結婚した。
もうはたから見たら順風満帆そのものだったと思う。
しかし、たまたまよい営業成績をおさめているものの、あいかわらず製品の理解度は低いまま…。
自分なりに勉強はするもののそもそも理系出身の同僚たちから比べると理解するのに時間がかかる。
周りからの評価とは裏腹に、2年目以降は自分の後輩たちの方が中身は優秀であると感じ、なんとなく徐々に自分への自信を失っていく日々が続いた…。
そんな中、結婚したこともあり、生活の拠点を東京に戻そうと、心機一転、転職し東京へ。
今思えば、この時の選択がよくなかった…。
この時の私は以下のポイントから医療業界に残る決断をした。
- 結婚したからには妻に苦労を掛けたくない
- 医療業界は給与水準が高く、景気の影響を受けづらい
- 徐々に自信を失いつつあるとはいえ、コミュニケーションスキルには自信があり実績もあるから、自分なら何とかなるだろうという根拠のない自信
そんな思いから、結局医療業界に残ることとした。
さらに東京を拠点とするために転勤のない開発職に転向することにした。
当たり前だが、医療関係の開発職は今まで以上に理系脳や知識が必要な仕事だった。
そこからの7,8年は本当に失敗ばかりのどん底の日々…。
会社でも最底辺の能力、評価だった。お荷物社員…。
なぜ自分はこんなにもダメなのかと自己嫌悪の日々を過ごしていた。
それでも、不思議とお得意のコミュニケーションスキルだけは発揮されていた。
ミスだらけなのに、なぜか上司や先輩、後輩たち、さらにはお客さんからも愛された。
入社から10年くらいすると、気づくとなんだか出世していた。
チームの管理者として、部下たちに指示を出す日々。
初めて管理者として担当したプロジェクトは成功裏に終わったため、自分がプレイヤーの時よりもうまくいった、私はプレイヤーよりも管理職に向いてたんだとその時は思った。
でも、担当プロジェクトが成功したおかげでもっと難しい仕事に割り当てられるようになった。
すると、徐々に化けの皮が剝がれてきた…。
自分よりも賢い優秀な部下たちからたくさんのことを求められ、日々パニック…。
どんどん自分のキャパでは対応できなくなっていき、仕事がどんどん溜まっていく。
そして、部下たちに迷惑をかけるようになっていった…。
そんな日々が続いたある日、電車が会社の最寄り駅についても降りられなかった。
会社に近づけば近づくほど動悸がし、会社に行くことが怖くなった。
すぐに上司に電話して伝えたところ、しばらく休めと言われた。
その日から1か月ほど休んだ…。
周りの人には本当に恵まれていた。
上司はとても理解があったし、部下たちも心配して連絡をくれた。
復帰の際には私が気負いなく仕事できるようにと関連会社へ出向させてくれた。
出向先にも理解のある上司がいたので、仕事はやりやすかった。
でも数年経つとまた化けの皮が剥がれ始めた…。
復職後の仕事は順調だったため、その出向先の中でもポジションはどんどん上がっていった。
徐々に自分のキャパを超えてくる感覚があった。
そこで、上司にこれ以上は無理だと伝えてみた。
すると、この会社で私以外に任せられる人はいないと言われ、少しうれしい気持ちもあった。
で、しばらく無理をして頑張ってしまった…。
まただ・・・また会社が怖くなった・・・また会社から逃げ出した…。
結果、また皆に迷惑をかけた…。
人の役に立てず、人に迷惑をかける自分がどんどん嫌になった。
この世から消えたいと思った。
「自律神経失調症」の診断~克服を目指しブログを開始するまで
人生で初めて心療内科を受診した。
先生は休職するようにと診断書を書いてくれた。
この時の診断名が「自律神経失調症」だった。
今度は3か月休んで、さらに転職をした。
何度も迷惑をかけ、同じ職場に復職する勇気がなかった。
このとき、すでに15年以上のキャリアを積んでいる私には、次の職場ももう医療業界以外の選択肢はなかった。ただ、むしろ医療業界内であれば私の経歴はとても魅力的だったようで引手数多だった。
気づけば、ありがたいことに前よりも好条件で転職することができた。自分の存在意義を認めてもらえた気がして正直嬉しかった。
そして、そのタイミングでコロナが拡がった。
新しい会社には、ほぼ行くことなくフルリモート勤務となった。
正直、毎日リモート勤務で働きやすかった。
子どもたちとの時間も増え、毎日充実していた。
そして仕事も順調で新しい会社での評価も徐々に高まっていった。
すると、当たり前だが、どんどん仕事が増えていった。
今度は今までに経験したことのないようなレベルの仕事も増えていった。
顔の見えない、会ったこともない部下たちからたくさんの要求を受け、
海外にいるプロジェクトリーダーから毎日確認のメールが夜中に届く日々…。
自分で対応しきれないことが増えていったが、それでも頑張り続けた…。
なんとか2年半は頑張った。
でも、またポキッと折れた…会社PCを開くのが怖くなった…。
また逃げ出してしまった…。
再度通院し、改めて「自律神経失調症」だと診断された。
そこから、自己嫌悪のどん底の日々を数か月過ごした。
同僚や家族にも迷惑をかけ、何度も逃げ出し、自分はなんでこんなにダメなのかとまた自己嫌悪の日々を送った。
「死にたい、飛び降りたい」
そんなことを何度も口にし、家族に心配をかける日々。
パートの妻が「もう医療関係の仕事やめなよ。給料が安くなったってかまわないよ。」と言って、
自分のパートの時間を伸ばし、休日も減らして頑張ってくれている。
さらに会社に「正社員にしてくれないか」と交渉までしてくれている。
3人の子供たちも「パパが今まで頑張ってくれてたの知ってるから大丈夫。ゆっくり休めばいいよ」と優しい言葉をかけてくれる。
本当にありがたい。家族の存在は本当に自分の原動力になる。
家族がいなかったら、通院もせずに死ぬ選択をしてしまっていたかもしれないと思うとゾッとする。
そんな家族のサポートのおかげで最近ようやく少しずつ前を向けるようになってきた。
もう休職して5か月。
それでも自己肯定感を高めないと生きていることがつらくなる。
「自己肯定感」とは「ありのままの自分を肯定する、好意的に受け止められる感覚」らしいです。
つまり、今の自分を好意的に受け止められるようにならなければいけない。
今、私は毎日「自分、がんばった」「自分をほめたい」と思えるように過ごしている。
休職で毎日家でダラダラ過ごしていると「家族や友人たちは頑張っているのに俺は何をしているんだ」と再び自己嫌悪に陥ってしまう。
だから、自分をほめてあげられるように生活することが重要だ。
そのために私はブログを始めた。ただダラダラ過ごすのではなく、働いていた時のようにまずは毎日PCに向かうために。
そして、このブログを書くことで、Web関連の知識を身につけ、医療関係ではない道へ進むために。
私はチャレンジを始めた。これがブログを開始した経緯だ。
ブログを書いていると必然的にPCに向かう時間が増えるし、勉強も必要になる。そして同時にTwitterでの交流などでバーチャルとはいえ、社会とのつながりができる。
自律神経失調症克服のために「ブログ」というものはとても最適なツールであると個人的には感じている。ブログを開始してから自己肯定感の高まりを日々感じている。
自律神経失調症を克服するまで
そして、私は今、家族たちにも「よくがんばった」とほめてあげるようにしている。
家族が笑顔でいてくれると家の中でとてもホッとできる。この貴重な空間を失いたくない。
笑顔でいられることは心にゆとりがある証拠。数か月前の私はうまく笑えなくなっていた。
最近ではだいぶ自然に笑えるようになってきた。
自分が立ち直るための一助になればと思い、このブログを始めたが、
結果としてここで発信する内容が皆様の「豊かな生き方」に繋がれば、これほどうれしいことはない。
私はこのブログを続けながら必ず「自律神経失調症」を克服してみせる!
そのときには「自律神経失調症克服のためのブログのすすめ」を記事にしたいと思う。
今日もこのブログを書き終えた自分をほめてあげたい。
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